発達障害がある子どもたちのための手引書

発達がゆっくりな子どもたちへの応援ブログです。私は障害のあるお子様が、学校の授業が終わった後や、休業日に通って療育を受けられる通所施設の放課後等デイサービスで学習支援をしている先生です❗子どもたちを教えている立場から見えることをお話しします❗

子どもたちと一緒に考えたい大切な事とは?


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こんにちは、ともたんです☺️

 

私は生まれつき体が弱く、小さい赤ちゃんの頃心臓の手術を受けました。幸い、程度的には軽い方に今ではなるかと思いますが、毎年1回は定期健診に行って、体の状態を診てもらっています。

 

弱いことを受け入れ、ありのままに生きようと心がけてはいるものの、時々あ~だったらなぁーとかこうだったらなぁーとか恨みがましく思ってしまう自分がいます。

 

そんな私が、今のこの時期に子どもたちと考えたい事があるのです。

 

それは『死ね』という言葉についてです。

よく子どもたちは深い意味なくこの言葉を言います。

言っている相手が嫌いだから使うとは限りません。

単に「おはよう!」的な感じで使う子どももいます。

 

しかしこの言葉はやはり使ってはいけないのです。

 

生きているから、死が訪れるわけです。

そもそも生きていなければ、もっと言えば存在していなければ、死ぬこと自体あり得ないわけです。

 

今こうしてなんだかんだ言っても生きられているから、言える言葉だと思うのです。

 

しかし平凡な毎日を生きたいと願いながら、病と必死に戦っている方々の事を考えてみるべきです。

もしあなたが彼ら彼女らだったら、この言葉を言えるでしょうか?

 

自分に明日が来ると信じられるから、吐けるのではないでしょうか?

 

私の教え子にこんな体験をした子がいます。

それは東日本大震災に関する経験です。

 

その子は直接東北にいたわけではありませんが、その子の父親が仕事でその日その場所にいました。

震災にあってしまったわけですが、偶然流れてきた車の上に乗っかり、無事だったそうです。

 

淡々と話してくれましたが、きっと相当心配だったはずです。

 

このように見てきましたが、『死ね』という言葉には3つ意味合いが考えられる気がします。

①挨拶的な意味合い

②嫌いな相手に対して向ける意味合い

③自分の気持ちに何とか折り合いをつける意味合い

 

いずれにしても、私たちは今こうしてこの世界に身を置けているのは生きているからではなく、生かしてもらっているからだと捉え直すべき、あるいは確認すべきだと思います。

 

当たり前じゃない。

誰が決めての当たり前なのでしょうか?

自分だけのものさしで考えてはいけないのです。

 

私は子どもたちに、使う言葉の選び方に慎重になってほしいです。

そして口に出す前に、その言葉遣いが適切かを熟考してから、出すような相手を思いやれる人に成長してほしいと思います。